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鼻3話

> Novel > 日本文学 > 芥川龍之介 > > 3話

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 ――前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。
 内供は、誦(ず)しかけた経文をやめて、禿(は)げ頭を傾けながら、時々こう呟(つぶや)く事があった。愛すべき内供は、そう云う時になると、必ずぼんやり、傍(かたわら)にかけた普賢(ふげん)の画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事を憶(おも)い出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺憾(いかん)ながらこの問に答を与える明が欠けていた。
 ――人間の心には互に矛盾(むじゅん)した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥(おとしい)れ て見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながら も、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
 そこで内供は日毎に機嫌(きげん)が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱(しか)りつける。しまいには鼻の療治(りょうじ)をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪(ほうけんどん)の罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。殊に内供を怒らせたのは、例の悪戯(いたずら)な中童子である。ある日、けたたましく犬の吠(ほ)える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片(きれ)をふりまわして、毛の長い、痩(や)せた尨犬(むくいぬ)を逐(お)いまわしている。それもただ、逐いまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃(はや)しながら、逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上(はなもた)げの木だったのである。
 内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨(うら)めしくなった。
 するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸(ふうたく)の鳴る音が、うるさいほど枕に通(かよ)って来た。その上、寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒(かゆ)いのに気がついた。手をあてて見ると少し水気(すいき)が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。
 ――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。
 内供は、仏前に香花(こうげ)を供(そな)えるような恭(うやうや)しい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
 翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏(いちょう)や橡(とち)が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金(きん)を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪(くりん)がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀(しとみ)を上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。
 ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
 内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜(ゆうべ)の短い鼻ではない。上唇の上から顋(あご)の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂(わら)うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁(ささや)いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

青空文庫より

(終わり)